諏訪神宮寺雑記 (1)はじめに
長野県諏訪地方に鎮座する諏訪大社は、全国に1万社とされる諏訪社の総本社である。その社殿には上社と下社があり、さらに上社は本宮と前宮、下社は春宮と秋宮に分かれている。特筆すべき祭儀に、7年に一度の式年造営御柱大祭(おんばしら)がある。寅と申の年、宝殿の造営に加え、深山から計16本の樅の巨木を伐り出し、4箇所の社殿まで曳いて、その4隅に建てる勇壮な祭りである。
大きな御柱になると、周囲3メートル、長さ16メートル、重さ13トンにも及ぶ。これほどの巨木を、諏訪一円の氏子たちの人力によって、上社は約25キロ、下社は約10キロの行程をかけて曳き建てるのである。独特の木遣りの歌声とともに、御柱は見事に進んでゆく。その道中には、急坂を曳き落とす「木落し」や、河川を引き渡す「川越し」、長持ちや花笠踊りが華を添える「里曳き」、
そしてヨイトマケによって柱を建てる「建て御柱」など、数々の見せ場があり、近年は県外からも多くの見物衆で賑わう。
次回の平成22年の御柱祭にむけ、すでに御用材の見立てが行われるなど、諸準備が着々と進められている。本番の年が近づくにつれ、諏訪の平は「おんばしら」一色となっていく。この年には出費がかさむことから、婚礼や普請を控える風習まであるほどだ。諏訪人にとって御柱祭は、まさに人生の節目でもあり、地域を挙げての大祭と言うにふさわしい。
おそらく諏訪地方の人は、特に御柱祭を通じて、誰しもが諏訪大社のことを知っているだろう。あるいは初詣やお宮参りなどで、実際に参拝したことのある人も大勢いるはずだ。ただしその諏訪大社に、かつて大寺院が設けられていた事実を知る人は、地元でも極めて少ないように思う。かろうじて上社本宮付近に、「神宮寺」の地名が残されてはいるものの、往時の神宮寺の様子、あるいは明治維新の際に取り壊しとなった経緯について、ほとんど伝承されていないのが現状である。
江戸時代の末までは、各地の神社と同様に、諏訪神社にも数々の仏堂や塔が建ち並んでいた。そこには仏像が安置され、経典が奉納され、そして僧侶が居住していた。僧侶たちは諏訪大明神のために、年中の行事を執り行い、日々の読経や修法に勤め、天下泰平・国土豊饒を祈り続けてきたのである。もちろん御柱祭にも、御射山の神事にも、僧侶はこぞって出仕していた。
現在の神社と寺院の関係からすれば、奇異に感じるかもしれない。しかし、かつては日本古来の神祇と、インド由来の仏菩薩を区別しつつも、本来的には同一のものとして、ともに信仰していた時代があった。いわゆる神仏習合、つまり神祇と仏法への重層的・有機的な信仰形態のことである。ところが、明治新政府による神仏分離令、さらに引き続き起こった廃仏毀釈運動により、そうした信仰形態のほとんどが潰えてしまった。いまでも各地で、興福寺と春日大社、延暦寺と日吉大社というように、寺院と神社が近接して見られるのは、実はそのなごりと言える。
明治維新さらには戦後、日本は近代化・国際化を進める際に、多くの信仰・文化・伝統を置き去りにしてきた。すでに失われた有形・無形の文化遺産は計り知れず、誠に残念なことである。もっとも、大きな時代の流れにおいて、それはやむを得ぬことであったのかもしれない。むしろ、積極的に西洋の制度や思想を導入することで、新たな社会秩序や文化が形成され、さらには世界の重要な位置を占める経済大国となったこともまた事実であろう。
ところが近年、社会全体に閉塞感が漂う中、失われた何かを求めるかのごとく、過去の文化や伝統に学ぼうとの機運が高まっている。ただその際、過去を郷愁的に賞賛してもあまり意味はないだろうし、あるいは個々の文化や芸能などを表面的に傍観するだけでは惜しい気がする。それらの基盤となっていた思想や信仰や宗教、そして社会のあり方にまで踏み込み、じっくりと再確認・再評価する必要があるように思う。
そのときに注意したいのは、急速な社会状況の変化とともに、信仰や宗教のあり方もガラリと変わり、いまなお変わりつつあることである。つまり、すっかり途絶えたもの、そのままに伝わるもの、変容もしくは変質しているもの、あるいは時代意識の奥底に無自覚的に流れているものなど、複雑に交錯しながら変化し続けているのである。だから、現在そうであることが、遠い過去から一貫してそうであったと軽率に言うことは出来ないし、逆に形式は途絶えたかに見えても、その本質は意外と深く根付いている場合もあり得るのだ。
いま私たちは、過去から漠然と引き継いでいる精神文化や宗教的伝統について、改めて目を向け、そして問い続けるべきではないだろうか。つまり、古今の信仰や宗教のあり方をよく観察するとともに、それを自身の根源的な感性や、現代の多様な視点と突き合わせることで、信仰や宗教に対して、より主体的に向き合っていく眼を、しっかりと養っていく必要があると思う。そのための糸口は、私たちの身の回りに、数多くあるはずだ。今回筆者は、ひとつの参考例として、諏訪神宮寺を取り上げ、かつての様子を少しずつ整理しながら報告していきたい。諏訪は筆者の生まれ育った土地であり、神宮寺のあり方は日本の伝統的な信仰や宗教を考えていく上で、様々な示唆を与えてくれるだろうと期待するからである。