ニーチェフェアー
ここのところ、書籍の購入はすっかり通販のお世話になっている。欲しい資料が、どうしても中国書籍、しかも「要取り寄せ」という類いであるから、致し方ない。
一日に目に触れる言語は圧倒的に漢文が多く、平仮名・カタカナの抜け落ちた文章は、慣れた目にはずっと効率的に映る。既にこの世におられぬ中国人との対話ばかりしていては、さすがに現代日本に生きる日本人として必ずしも問題は無いとは言えそうになく、偵察がてらに地元の本屋に繰り出した。
大陸や台湾の書店とは言えないまでも、私の興味を惹くジャンルを些か取りそろえている書店が近所に在るのは喜ばしい。時折、相当に専門的な本も置いてあるから、バイヤーの心意気に感服する。とは言え、勿論一般書店であるから、平積みは基本的に売れ筋をラインナップしている。そこは普通の本屋と全く変わりはない・・・はずだが、平積みのコーナーに「ニーチェフェアー」のポップが躍る。なんともミスマッチな組み合わせに、そもそも何処の音節で区切るべきかさえ覚束なかったのであるが、哲人ニーチェの書籍がずらりと並ぶ書棚を見て、どうにかその意味を解した。
しかしそもそも何故に「ニーチェ」で「フェアー」なのか?
新刊『超訳ニーチェの言葉』がどうもタネのようだ。平易な翻訳で好評を博していると聞くが、あの「ニーチェ」が売れるとは存外であった。否、これは寧ろ私が日頃抱く漠然たる思いにリンクしているように思い直された。現代日本の社会を見回してみるなら、悪しきニヒリズムが大口を開けて待ちかまえているように、私は思う。もしもそうであるとするなら、ニーチェが売れるということも、あるいは合点がいくことなのかもしれない。
停滞する経済状況の中、派遣労働を始めとする労働の在り方をめぐって矛盾が噴出して来た。それはまさしく経済の合理性を追求した結果であって、構造的不平等も自己責任の名の元に、人間の使い捨てを正当化させることに成功した。これは単純労働に特化された現象というわけではない。私の周囲を見回して見ても、それと決して無関係ではない。最近になって少しく報道される機会も有るが、学的に訓練された人物の将来は決して明るくない。自己韜晦的に「野良博士」と称するのも、あながち的を外した表現とは言えないだろう。もはや「末は博士か大臣か」との言葉も、現代日本に於ては呪詛にも近いニュアンスを持つことになるかもしれない。
経済学の科学性を担保するために失われた人間性を、経済学の人間観に回復しようと努めたのはアマルティア・センの功績であろうか。しかし、すでに丸山真男の指摘したとおり、根底の哲学を喪失した経済学がタコ壺形の専門性をいまだに保ち続けているとしたら、形而上学の不在が告げられねばならない。なにはともあれ、経済上の理由が我が国で最も説得力を持ち続ける現状では、この国の人間観・世界觀をどのように考えたら良いのだろうか。行政が率先して提唱した「美しい国」のスローガンさえ、一人の夢想の範囲を超えることはなかった。
私は現代日本を襲うニヒリズムはひどく深刻なものと見積もっている。未だに凄惨な映像を忘れることのできない秋葉原事件。そして土浦連続殺人事件。犯人の殺意の対象は「誰でも良かった」。誠に勝手な利己的な犯意と言わねばならない。それでは、翻って犯人は果たして確固たる「誰か」であったのか。ニヒリズムの狂気は確として顔をのぞかせた。
一方、社会はこの問題を刑罰論にすりかえた。犯罪抑止の理念はなりをひそめ、そこには復讐的心情が支配している。勿論、当の犯人自身が既に言っている。「自らが死ぬことを代償に人を殺すこともできる」、と。もはや制度的議論の範囲をとうに超えてしまっているのだ。
(遠藤純一郎)