7月の研究会のお知らせ

日時   7月29日(水)13:00〜17:00

場所   蓮花寺佛教研究所

発表者  小林崇仁、高橋秀城

今月の研究会は、共同研究「佛教と経済」のテーマにそった研究発表となります。

皆様のご参加おまちしております。

*研究会日以外の、研究所の開室時間は以下の通りとなります。
 
 月・火曜日 11:00〜18:00

Protected: 研究会報告 34

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闘争仏教

 先日、インドより来日中の佐々井秀嶺氏の講演を聞きに、護国寺に行ってきた。時間ちょうどに到着したところ、講演会場の本堂は満員、外にまで立ち見の人があふれていて、正直驚いた。佐々井氏については、山際素男『破天』をはじめ、いくつかの書籍が出版されているし、また、テレビや雑誌などでも幾度か取り上げられているので、ある程度の知名度はあるだろうとは思っていたが、ここまで多くの人々の関心を集めているとは思わなかった。

 会場に集ってきていた、凡そ20代から70代までの年齢層もまちまちの人々が、何を求めてこの講演を聞きにきたのかは不明であったが、日本の仏教に対する批判的な視線を共有していること、また、行動する仏教に関心を持っていることが感じ取れた。

 講演に先立って、フォトジャーナリストの山本宗補氏が、佐々井氏の活動を写真とともに、わかりやすく解説してくれた。山本氏は、佐々井氏の活動を「生きた」仏教の姿といい、「Engaged Buddhism(社会参加仏教)」という言葉で紹介していた。

 「Engaged Buddhism」の語は、今日、日本でも定着しつつあり、学際の場で取り上げられることも多くなった。その定義や、評価については、随分と議論もあるが、私は「社会問題に取り組む活動を旨とする仏教」というように理解している。

 この「Engaged Buddhism」という語を考案したのは、ベトナム出身の禅僧、ティク・ナット・ハン。ベトナム戦争のさなか、非暴力に基づいた反戦活動を展開した人物である。ティク・ナット・ハンの活動の立脚点は、しかしながら、こうした社会参加自体の中にあるというよりも、禅を通して開かれる世界の認識の中にあるように見える。彼自身の「Engaged Buddhism」は、そうした認識の中から立ち現れてくる行動であり、なにも社会参加を旨としている訳ではない。しかし、その後、アメリカで盛んに議論されるようになった「Engaged Buddhism」は、現代社会における諸問題の解決を立脚点としており、「社会問題に取り組む活動を旨とする」と表現して、特に差し支えないと思う。この「Engaged Buddhism」の活動は、エコロジーや反戦、人権運動など多岐にわたるが、これらの行動原理を、いわば後付け的に仏教に求めた観があることは否めない。

 「社会問題に取り組む活動を旨とする仏教」という意味では、確かに、佐々井氏の活動は「Engaged Buddhism」の一つの尖端である。

 端的にいえば、佐々井氏の仏教の実践とは、被差別階級の人々の人権を回復するための社会闘争である。講演の中で、彼自身、これを「闘争仏教」と名付けていた。いかにも、ラディカルで独創的な仏教解釈であるが、こうした佐々井氏の仏教の実践のあり方は、彼がその後継者となったところのアンべードカルの思想に基づいている部分も多い。ネルーのもとで法務大臣を務めたアンべードカルは、伝統的なヒンドゥー法に基づく不可触民制の撤廃に半生を捧げ、自らヒンドゥー教と決別し、その晩年に、数十万人の被差別階級の人々を率いて仏教に改宗した。近代的なヒューマニズムの精神に基づいた、アンべードカルの独自の仏教解釈は、彼が晩年に著した『ブッダとそのダンマ』に余すところ無く披瀝されている。

 アンべードカルによれば、ブッダの教え(ダンマ)は、社会的なものであり、それは正しい人間関係を意味し、その目的は世界の改革にあるという。こうしたアンべードカルの仏教解釈に対しては、当初より「仏教ではなくアンべードカル教だ」という批判の声があった。仏教の言葉を都合よく寄せ集めた、彼自身のヒューマニズムの表明に過ぎないのではないかとの批判である。

 仏教史を、多様な仏教解釈の展開の歴史とみるなら、アンベードカルの仏教の存在意義も認められるように思えるが、それが何故、仏教であるのか、あるいは仏教であることの必然性は何か、という問いが発せられてしかるべきであると思う。(続)

山野 智恵

Rengeji Institute of Buddhist Studies