師走に思う

中国漁船の領海侵犯に関する報道が一段落したかと思うと、今度は海老だと騒々しい。

尖閣問題では、報道機関の自負心を著しく傷つけたのか、流出ビデオの投稿先にYouTubeが選択されたことに対して、報道各社は「配慮無き情報の垂れ流し」との論調を固め、極めて批判的な態度に終始していた。と思えば、一歌舞伎役者の私生活の暴露に奔走するとは、彼らの主張の意味を如何に解するべきか、甚だ当惑させられる。主役不在の顔見世興行に不満を持つ観客の声までテレビニュースで報道されるというのであるから、よほど歌舞伎が我が国にとって欠くべからざる重大事であったということなのだろうか。

甚だ違和感を拭い去れぬまま報道を見ていると、歌舞伎の観客が今回の事件に対して、あの歌舞伎役者の「人間修業の足り無さ」を指摘していた。これは彼の師匠の指摘を踏まえての発言であったのであろうが、何かそこで語られる「人間修業」という言葉にひっかかるのだ。「人間修業」と言うのであれば、当然「人間いかにあるべきか」が目指されていて当然ということになる。勿論、彼の師匠も「人間かくあるべし」との一家言が有ることだろう。このことは、その言葉を発した観客についてもその人なりの考えが有ってのことだろう。しかし、残念ながら「人間かくあるべし」の中味については、ちっとも議論してくれないのが日本の報道である。そのようなことは、あまりに常識的であるから報道するに値しないということなのであろうか。しかし、師匠と観客の言う「人間かくあるべし」は果たして合致するものなのだろうか?中味を知らずに報道を見せられる者としては、ただ空虚な言葉が行き過ぎる感覚を覚えるのみだ。

果たして現代の我が国に「人間かくあるべし」はそんなに自明なことなのだろうか。

いみじくも、先日、石原慎太郎が興味深いコメントを発していた。

それぞれの国にはアイデンティティーというか、或いは精神的枠組みというか、そういうものが有り、例えばフランスであれば「自由・博愛・平等」、アメリカなら「自由」が挙げられるが、我が日本はどうであろうか?それはせいぜい「温泉・グルメ・お笑い」程度のものなんじゃないか。

表現まで正しく紹介することはできないが、おおよその内容は以上のように記憶している。勿論、これは石原氏特有の韜晦と見るべきも、必ずしも笑い事として看過され得ない、真実味が有るようにも感じられる。少なくとも、戦後の平等主義が一役買った相対主義の元では、「人間かくあるべし」の命法も相対の波にさらわれてしまう運命にある。まして受身的消費文化に慣れきってしまえば、命法を建立すべき主体性の所在すら危ぶまれるかもしれない。しかしそもそも、西欧の理性、儒学の性善、仏教の仏性など、万人の本質を等しく規定するものが人間存在の平等性を保証してきたはずだ。このように言うと、何か寛容な精神を言うようにも響くが、同時に自己の本質を全現させるよう常に要請する厳しい側面を忘れてはならない。氏の言う「温泉・グルメ・お笑い」がこの厳しさを脱色した結果なのだと見たら、あまりに悲観的にすぎるだろうか。自己の本質への視座を忘却すれば、人間の生は表層的な社会契約程度の意味しか持ちえず、世間で言う生の肯定も窮地の人を救う力には到底なりえないだろう。

今日も、もっともらしく耳ざわりの良い言葉が聞こえる。

遠藤純一郎

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